リングがあればなんでも出来る

タイでプロレスを普及させようと頑張った素人の話です

自分の中の完結

(この原稿は2017年2月頃にフリーペーパーdacoウェブサイトに掲載された「タイでプロレス興行を目指す男の記録」 第25回 の再掲載です)

 

ジャパンエキスポタイランド2年連続2回目の興行。

今でも自分がそれを企画運営したのかと思えないような、夢のようなひとときが無事に終わりました。

 

 まず開催中はホントにすごくバタバタだったので、いろんな方々に細かいところで配慮や気配りが足りなかったことがあったかも知れません。

この点はどうかお許し下さい。

 

 2回目が1回目の大きなインパクトを超えるのは普通難しいことだと思うのですが、今回は私の想定外の領域で完全に1回目を超えていたと自負しています。

お越しいただいた方々、本当にありがとうございました。

 

 言いたいことがたくさんあります。

 この連載1回では書ききれないので何度かに分けさせてください。

 

まずはスペルデルフィン選手。

12年越しの約束を守りました。

最初はそこまで感慨にふけるとは思っていなかったのですが、空港で彼を出迎え、顔を(まぁ素顔の方ですけど)見た瞬間、

デルフィンさんの方から

12年かかったけど、やっと来れたね」

と言っていただきました。

お出迎えした時に

12年間お待ちしておりました!」

と言おうとしていた私に対して先に同じことを言われたわけです。

私と同じ気持ちで苦手な飛行機に乗って来てくれたんだ、と思うと一瞬で涙が出そうになりました。

人は誰でも過去への後悔を持っていると思います。

「あの時、ああすれば良かったのに」

というような想い。

そしてその後悔を取り戻すことは大抵は出来ません。

しかし空港で彼を出迎えたその瞬間、私の気持ちは完全に12年前に戻っていました。

過去を取り戻すことって出来るんだ、という、今まで生きてきてはじめての気持ちになりました。

空港で出迎えをした翌日、

リングに上がるスペルデルフィン、オリジナルの技をかけるスペルデルフィン、見ているうちに12年前に発生した私の怨念がスーッと心の中から消えていった気がします。

ホントに来ていただいて良かったです。

 

そしてダンプ松本選手。

2年がかりの交渉で来ていただきました。

残念ながら膝を故障中で普通に歩けない状態でした。

車椅子の姿をファンに見せるわけにはいかない、というトップヒールのプライドがあり、試合以外の時間はほとんど会場内に登場していただけない形でしたが、それでも2日間、圧倒的な存在感で試合を支配していました。

帯同されていた週刊プロレスの記者さんでさえも驚くような満身創痍のファイトを見せていただきました。

そしてダンプさんは帰国の途に着く直前、

「渡したい物がある」

と私を呼び止め、なんと竹刀をいただきました! 

何年使っているのか分からないくらい古い竹刀であちこちに血の跡がついています。

もはや博物館に寄贈するレベルの竹刀です。

「タイのプロレスの発展を祈念してこの竹刀を吉本さんに預けます」

ということでした。

私に預けられても、、、、というのも確かですが、今後はタイのヒールチームBad Company の反則用武器として彼らに「レンタル」したいと思います。

ちなみに2日目のダンプさんの入場時、竹刀で一発、私もやられました。

その日はアザになるほど痛かったですが一生の思い出になりました。

 

文字数の関係で今回はこれだけになりますが、私の中で今回のこの大会は1 つの区切りになったということだけは先に書かせていただきます。

1章(?)シーズン1 は完結しました。

 

この1年でプロレスファンそしてちょっとした関係者としての英才教育を受けた私ですが、1つの決意をした大会になりました。

 

タイのプロレスという船は大海原に出航し、海の真ん中にいる状態だと思います。今回、みちのくプロレスさん、我闘雲舞さんとも意見交換をして、いよいよ大きく舵を切る時が来たような気がします。

 

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タイのヒールチーム Bad Company とトリオを組んだダンプ松本選手

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こんな感じのリングでした

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デルフィン選手が写真に入っていることが嬉かったです